糸あやつり中興の祖と呼ばれる、九代目結城孫三郎氏に13歳で弟子入りし高弟であった、結城孫太郎が九代目結城孫三郎氏亡き後、結城の名を返上し、
河竹繁俊・徳川夢声両氏の推挙により結城孫太郎は昭和三十年三月、竹田三之助と改名し竹田人形座を誕生させた。
竹田三之助の芸養子、竹田扇之助は信州赤穂の生まれで彼の父親は喜楽という食堂をやっていた。終戦直後、結城孫太郎(後の竹田三之助)は
九代目結城孫三郎氏と巡業で赤穂へ行ったとき、バスを待つのがもどかしく一杯やりたいと思って飛び込んだその店が扇之助の家であった。
その時に人形が好きで自分で作っては芝居をしていた扇之助は九代目結城孫三郎氏に人形を見せた。その時に九代目結城孫三郎氏の目に留まり、
この子を最後の弟子にしたいと扇之助の父親に頼み込んだ、しかし扇之助の父親は河原乞食なんてできるもんじゃない、と断った。
その後、その縁がきっかけで扇之助は後に三之助の芸養子になる。
兄弟弟子である人形作家・竹田喜之助を得て、映画・TV・ショービジネスに活躍。
昭和四十年三之助亡き後、竹田の名跡を継ぎ竹田人形座を主宰。
1979年、不慮の事故で竹田喜之助を失い、後に竹田扇之助は病のため引退。
竹田人形座は活動を休止することになり、約2,600体の人形たちは竹田扇之助記念国際糸操り人形館に保存・展示される事となった。
2020年11月29日
竹田扇之助逝去。